中山道の旅

26:大井宿・大湫宿・細久手宿


(昔話)・・はだか武兵



大井宿・・・JR中央線/恵那駅

大湫宿・・・JR中央線/釜戸駅

        大湫病院バス/大湫病院バス停

細久手宿・・JR中央線/瑞浪駅

         瑞浪市コミバス/細久手口バス停


大井宿・・大湫宿・・細久手宿・・大黒屋(泊)


  大井宿を出て、雨の中、寂しい道を辿り、今宵の宿(大黒屋)を目指した。

 

 地元の観光協会に尋ねた結果、下街道と上街道の存在と、上街道は参勤交代に使う道であって、下街道は庶民の道で、お伊勢参り用に定めたようだ。だが古い宿場名の消失についての回答は未だにない。

 

 この先は十三峠の立て札がある。霧でじっとりした峠は山深い道になり、さほど険しくはないが登り、下りの坂が繰り返した。峠の数を数えながら歩いたが、途中で忘れてしまった。

 

 街道には茶店もない、誰とも会わない、音すらしない。こんな道を一人歩きしたらさぞかし恐ろしいぞ。熊の餌食になるのかなあ。これがおよそ4時間続くのだ。

 

 大黒屋の看板が現れた。しかし残念なことにこの宿の前に電柱がどっかりと立ち構えていたのだ。さらにその電柱にはトランスまで取り付けてあり、宿の外見との隔たりに失望だ、もっと最悪なのは隣の民家は輝くアルミサッシュを使っていた。

 

 150年の歴史を刻んだ旅籠で、床はギシギシと撓んでしまい。英語と日本語でソーと歩いてくださいの注意書き。広い二間続きの部屋に通された。床の間の掛け軸は当時のままなのか、ボロボロである。

 

 夕食時のご主人の話では、私で16代目になります。江戸末期の火災ですべて焼失、建て替えたと聞いています。

 

「明治になって中山道が使われなくなり、ここも閉じましたが、昭和になりこの付近で採れる(亜炭)の採掘で沢山の人が集まり、ここを利用するようになりました。今日は地元衆の集まりがありますので、ご迷惑をお掛けするかも知れません。」

 

 さらに話は続いて「ここまで歩けないでリタイヤする人もいます。連絡を受けて車で迎えに行くと、なんと・・・と両手を広げて、こんな人でした。一目でこれは無理と分かりました。」その後も料理の話とかが続き、楽しく、美味しい夕食でした。

 

 この宿が出来て間もないことですが、水戸藩主が京に向かう時に、この部屋で切腹したとか、何か出そうな雰囲気を感じて、神経を研ぎ澄ませたが、雨の音がするだけである。

2013/6/20



大黒屋は奥の建屋

切腹があった部屋に泊まる

美味そうな料理



次は何処の宿場へ