日光街道の旅

6:野木宿・間々田宿


(昔話)・・おたけ坂のお話



〜古河駅・・古河宿・・間々田宿・・間々田駅〜


 お彼岸の墓参りを済ませ、絶好の歩き日和だ。古河から間々田までを歩くことにした。

 

 古河宿。屋敷跡の道標につられ寄り道、よく手入れされた土塀、お侍が出てきても似合いそうだ。中を覗くと普通の住居があり、お侍さんは住んでいなかった。

 

 土塀の向に旅館があって、町内ガイドの看板が出ていた。

玄関を入ると、そこは別天地である。おー涼しい。

 

 誰もいないようなので、観光パンフレットに目を通すと、古河は、「許我」と表記されたときがあり、奈良時代から渡良瀬川の渡し場として賑わい。江戸時代には古河城があり、城下町として、また宿場町として栄えたとか。

 

 日光参拝の将軍が通ったので、美女を集めたのか、ここでも綺麗な若女将が登場した。

なぜここだけが(茨城県)で、栃木県と埼玉県、千葉県にも挟まれて不便でしょう。と尋ねると「そうなんですよ。母がいばらぎ女将の会の会長をしていて、何かあると水戸まで行くのです。

 

 この西側の(三国橋)が境目です。」ところで、ここのB級グルメを教えてください。

「カレーの工場があるためなのか、七福カレーめんとかがあります。」

間々田まで歩くので、もしカレー工場があれば覗きたいのですが。(本当は試食を期待した。)「待ってください。」と若女将はカウンター奥の事務所でパソコンで場所探しをしている様子。

 

 なかなか現れない。かなり苦労しているようだ。

10分ほどして、冷たいお茶が出てきた。口いっぱいに香りがしばらく続いていた。

「ごめんなさい。慣れていないので。」と声がして、(黒岩食品)の地図ができあがった。

地図を見ると残念、街道筋に工場はないらしい。

 

 雪の結晶をデザインした街灯が並んでいて、町ごとに工夫している。幕末期に藩主

20年に渡り雪を観測していて、「雪華」と名付けた。

 また、御家老はオランダから様々な事を学び、古河の蘭医は1670年には人体解剖までした。

 

 野木神社に立ち寄り、1200年の樹齢を持つイチョウの大木と対面。いまでも乳房を模した奉納品があった。

 

 背中に西日を浴びて、暇な歩きで車の観察。今日は黒い着物姿の坊さんが目立った。

2014/8/13



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