東海道の旅

19:御油の松林


御油宿・・名鉄名古屋線/御油駅

     御油夏まつり(8月)

赤坂宿・・名鉄名古屋線/名鉄赤坂駅

     赤坂宿行灯まつり(8月)

藤川宿・・名鉄名古屋線/藤川駅

     藤川宿むらさき麦まつり(5月)



〜国府駅・・御油宿・・赤坂宿・・藤川宿・・美合駅〜


 1月に日本橋を出てから300km歩いたようで、終点の京都までは180kmであと10日間だ。

一日の移動距離が16kmだが、昔の旅人は「七つ立ち」(明け方の4時頃)には暗い宿を出発。一里塚を目標に歩き、次の大きな宿場まではおよそ10里だから、そこに1日で到着したいので途中の茶店でお団子を食べたりして休みながら歩いただろう。

 歩行速度は我々と同じ3kmではなかろうか。昼メシ時間を含めると14時間歩き、暮れ六つの午後6時頃には宿に入ったのだろう。毎日この調子で歩けば12日間で京都に着く計算だ。一日に10里歩けない人達のために(間の宿)があり、歩きやすい環境があったのだろう。

 

 街道の幅はおよそ2間(360cm)はあり、道は旅人のために整備されていた気がする。便所(肥溜め)は何処にでも有り、大事な肥料として利用していたのにちがいない。今はコンビニを見付けるまでガマンしなければならないのだ。

 

 松並木は旅人を夏の日差しを弱め、寒い風を遮っただろうが、今はわずかしか残っていない。

1604年頃に徳川家康の命令で五街道に並木が整備された。松は荒れ地でも育ち、実は食べることが出来るので、並木の役目は多かっただろう。また松茸は食えるし、松の枝などは燃料として使えた貴重な木材だ。

 

 だが戦争が松の根から採れる油が航空燃料になると言われ多くが伐採された。

しかし燃料には不向きで使用されなかったが、ほとんどの松並木は切られていった。その後も道路拡張や松食い虫の被害で街道から多くの松並木が消えてしまった。

 

 御油の松並木は天然記念物に登録して伐採を免れた並木だ。松並木の近くにゴミ出しのおばあさんが「直ぐに松並木があるよ。」と教えてくれた。

 

 600メートル続く並木におよそ300本ほどの松、中には苗木もあり、しっかりと管理されている。

この松並木は(東海道中膝栗毛)で、弥次郎兵と喜多八がキツネに化かされた話がある。松の木は虫除けのコモが巻き付けてあった。

 

 並木の周囲は公園として整備され、散歩道が併設され、東屋もトイレもある立派な場所だ。この先の(藤川の松並木)は規模は小さく、左側は道路と壁の間に幹がやっと生えていた。右側の背の低い松は近年植えた物かもしれない。左側は残された大木だろう。

 

 相変わらず狭い街道、飛ばしてくる自動車に感心したが、それが国道の歩道歩きに変わった。本宿の入口に大きな石灯篭が有り、街道は国道と離れて住宅地に向かった。

 

 また国道に戻り、次は名鉄の線路と国道に挟まれた街道になったが、それも直ぐ国道にでた。国道を縫うように、街道は右に左に入り、国道は宿場を離れた場所を通っていた。

 

 街道歩きの一人旅。名古屋を出て一日40km歩くようだ。スマホは便利だと言い去って行った。

藤川宿の入り口に2メートルほどの木柱(棒鼻)が復元されて立っている。

 

 この付近は歌川広重の(東海道五十三次ノ内・藤川・棒鼻ノ図)の絵に登場している。棒鼻は宿場の入口を現す柱でこの付近に茶屋が出来ていたようだ。

 

 街道は路地になり枡形を思わせる角を曲がると住宅地の中を通る道になった。37番目の宿場で36軒の旅籠が有り、飛脚などの中堅場所として栄えていて、本陣も有った。古い家並みが残った(歴史国道)として保存されている。

 

 宿場の西外れに(高札場)があり、当時の禁止事項などが復元されていた。今も街角に高札が必要で(歩きスマホはだめ)とか(自転車は左側を走れ)などとあればなあ。

 

 美合駅からは名鉄で豊橋駅に出て新幹線で帰宅する予定だが、車窓から街道筋の景色を確認している間に豊橋駅に着くはずが、電車は減速してしまった。

 ホームに停車中の新幹線に飛び乗ると発車、土産を買うことなく豊橋を離れてしまった。

2016/12/29


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